井上十吉
石川遼 英語などがまだなかった時代、英語教育に尽力した井上十吉氏。
第一高等中学校を去った彼はどこへ行ったのでしょうか。
東京教育大学に保管されている履歴書によれば「依願免本官」の日付が明治26年6月29日で、「任外務省翻訳官」の日付が明治27年12月11日。
その間は空白になっていて何等の記載事項がありません。
磯辺弥一郎の書いた英文履歴によれば、明治26年7月に日本人編集記者としてジャパン・ガゼット社に入社とあります。
なお磯辺弥一郎の「英字新聞記者としての井上氏」から補足しましょう。
井上氏は教育界を去って横浜で発行のジャパン・ガゼットの記者となりましたが、日清戦争の突発するや、主筆の英人テナントが我が帝国にむしろ敵対の言論を吐露するので、井上氏にはこれを不快と思い辞職を申し出ました。
驚いたのはテナントで今、井上氏に遁げられては戦報を英訳して紙面に掲ぐることも出来ないので、契約期限の切れない中に辞職は不都合との口実で辞職を許しません。
友人であった故和田垣博士はこれを聞いて、よしおれが片を附けてやるとて、粗末な和服を着用し、やぶれ袴をうがち、巨大なステッキを携えて新聞社にテナントを訪い、非上氏の辞職を通告しました。
しかし、テナントは頑として承知せず、法廷に訴えると言い出した、和田垣氏は大喝一声、「勝手にしろ」とあの巨眼を怒らし、今にもステッキにて打ち懸らんずる勢いに、さすがのテナントも怖気立ち、忽ち降参して承諾したとのことです。